あるべきものを、あるべき場所へ|三俣山荘の道直しに参加して

道直しに参加する
今回、STATICと三俣山荘による「道直し」のプログラムに参加した。
以前からこの活動の存在はなんとなく知っていたものの、具体的にどのようなことをしているのか、どんな考え方で取り組んでいるのかを深く調べたことはなかった。
普段から登山やトレイルランニングで山に入る機会は多い。整備された登山道を歩き、走り、時には何十時間もかけて山を移動する。そうした道が自然にできたものではなく、誰かの手によって維持されていることはもちろん理解している。
それでも、登山道がどのような考え方で整備され、維持されているのかを深く考える機会は、これまでそれほど多くなかった。
今回の道直しは、普段何気なく使っている登山道を、これまでとは違う視点から見る機会になった。





自然が回復するための環境をつくる
三俣山荘が取り組んでいる道直しでは、登山道を単に歩きやすく整備するのではなく、荒廃した場所がかつてどのような風景だったのかを想像し、植生や風景の回復を目指している。
そのために大切にされているのが「想像と観察」という考え方だ。
なぜこの場所の土が削れてしまったのか。雨が降れば水はどこを流れるのか。人はこれまでどのように歩いてきたのか。
目の前にある荒れた登山道を、ただ修復すべき場所として見るのではなく、なぜそのような状態になったのかを考えるところから始まる。
今回、実際に行ったのは、荒れて広がってしまった登山道や、侵食によって土壌が失われ、植物が育たなくなった場所に石を組んでいく作業だった。
周囲から石を運び、一つひとつ組み合わせ、その隙間に小さな石や砂利を詰めていく。
石組みによって土砂の流出を抑え、雨水などで運ばれてくる土砂が留まりやすい環境をつくる。土砂が少しずつ堆積すれば、やがて植物が根を張るための場所が生まれる。植物が定着すれば、その根が土壌を保持し、さらなる侵食を抑えることにもつながっていく。
もちろん、石を組んだからといって、すぐに植物が戻ってくるわけではない。特に高山帯では植物の成長が遅く、植生の回復には長い時間がかかる。
今回の作業で興味深かったのは、人の手でその場所を完成させるのではなく、その後に自然の力が働くことを考えて手を入れるという点だった。
石を運び、組み上げるところまでは自分たちの仕事だ。しかし、その後に土が堆積し、植物が育っていく過程は、雨や雪解け水など、その場所の自然の働きに委ねられる部分が大きい。
今、その場所をどう整えるかだけではなく、何年も先にどのような状態になっていくのかを考える。
道直しという言葉から最初に想像していたものとは、少し違う取り組みだった。





登山道との向き合い方
これまで僕は、登山道というものを、基本的には人が山を歩くためにあるものだと考えていた。
もちろん、それは今でも間違っていないと思う。道である以上、安全に歩けることは大切だし、必要な整備もある。
ただ、今回の道直しを経験して、道を整えるということに対する考え方が少し広がった。
単に歩きやすい道をつくるのではなく、人がこれからも山を歩き続けることと、その場所の自然が持つ回復する力を生かすこと。その両方に目を向けながら、道のあり方を考えていく。
場所が変われば環境も違い、求められる整備の方法も変わってくる。何が正しいかという一つの答えがあるわけではない。
今回の三俣山荘の道直しは、そうしたさまざまな考え方の一つに触れる機会だった。
そして、登山道のあり方を考えることは、そこを歩く自分たちの行動について考えることにもつながっていく。
登山道は、そこを歩く人の影響を受けながら少しずつ変化していく。
例えば、ぬかるみを避けて道の外側を歩くことが繰り返されれば、道が広がり、周囲の植物が失われることもある。トレッキングポールを突く場所によっては、道の脇にある植生を傷つけることもある。
もちろん、山を歩く以上、自然への影響を完全になくすことはできない。
それでも、自分がどこを歩き、どう道を使っているのかを意識することで、変えられることはあるのだと思う。
自分たちは登山道を利用するだけの存在ではなく、その道のこれからにも関わっている。
そう考えると、普段何気なく歩いていた道も、少し違って見えてくる。
あるべきものを、あるべき場所へ
10代の頃から、ずっと心の中に残っている言葉がある。
"Placing Things Where They Should Be."
あるべきものを、あるべき場所へ。
何かを選ぶとき、何かをつくるとき、あるいは何かに違和感を覚えたときに、ふと立ち返る言葉だ。
これを自分なりの思想として、きちんと言葉にしてきたわけではない。ただ振り返ってみると、自分が大切にしてきたことの中には、どこかこの感覚が流れていたように思う。
今回の道直しでは、その場所にある石や土を使い、地形や水の流れを考えながら、自然が回復していくための環境を整えていた。
何か新しいものをつくり出すというよりも、その場所にあるものをよく見て、それぞれが持っている性質や役割を生かしていく。
その考え方に触れたとき、以前から自分の中にあった言葉と、どこか重なるものを感じた。
僕たちは普段、便利さや効率を求めて、さまざまなものを整えている。歩きやすいように道を舗装し、移動しやすいように地形を変え、ものを均一にして使いやすくする。
それ自体が悪いとは思わない。都市の中では、そうした合理性が多くの人の生活を支えているし、必要なことでもある。
ただ、山の中でも同じ考え方がいつも適しているとは限らない。
そこには、その土地の地形があり、植生があり、水の流れがある。長い時間をかけてつくられてきた環境の中で、何を変え、何を残すのかを考える。
都市には都市の、山には山の、その場所にふさわしいあり方があるのだと思う。
そして、それは単純に自然に手を加えないこととも違う。
今回の道直しでは、実際に人の手で石を動かし、地形に手を加えている。それは自然に対する人間の介入でもある。
ただ、その介入によって何を実現しようとしているのかが、これまで自分が想像していた登山道整備とは違っていた。
その場所にあるものを生かしながら、時間をかけて自然が変化していくことまで考える。
そこには、便利にすることとは違う、人と自然との関わり方があるように感じた。
そして、僕たちが山に行って感動するのも、もしかすると、そうした自然のあり方に触れるからなのかもしれない。
石も木も地形も、人間にとって都合のいい形に揃えられているわけではない。水が流れ、風が吹き、雪が積もり、長い時間をかけてその場所の風景がつくられている。
もちろん、山も人間の影響を受けているし、まったく手つかずの自然ばかりではない。それでも、自分たちの思いどおりにはならないものがそこにある。
普段の生活では、便利さや効率を求めてものを変えていくことが多い。だからこそ、山の中で、そうした価値観とは違うものに心を動かされるのかもしれない。
今回の道直しは、そんな自分の中にあった感覚を、改めて考える機会になった。




自分たちの場所でできること
今回の経験を自分たちの暮らす場所に持ち帰ったとき、では自分たちには何ができるのだろうか。
その答えが、登山道を整備することだけだとは思っていない。
それぞれが暮らす場所があり、それぞれが関わっている山や自然がある。そこには、その場所なりの課題や、人と自然との関係があるはずだ。
三俣山荘で行われている道直しと同じ方法を、別の場所でそのまま実践することが正しいとも限らない。
まずは、自分が関わっている場所をよく知ること。そして、自分がそこで何を感じ、何を大切にしたいと思ったのかを考えること。
普段歩いている道の状態に目を向けることもできるし、身近な山で行われている整備活動について知ることもできる。
大きなことを始めなくても、自分の歩き方を少し変えることから始められるかもしれない。
今回の道直しを通じて感じたことを、その場所だけの経験で終わらせず、自分たちのいる場所でも少しずつ生かしていきたい。
何を変え、何を残し、何をそのままにしておくのか。
今回の道直しは、自分にとって何が大切なのかを改めて考える時間になった。

