小さなナイフのこと RIDGE MOUNTAIN GEAR 肥後守 Micro Knife
ハイキングや山歩きにおいてはナイフは、あまり出番がない。
たいそうな物を持っていても使わない。そんな道具の代表格かもしれない。食事は簡易的なもので済ませることが多いし、何かを切る行為そのものが、一般登山においてはそれほど求められない。
けれど、年に何度か、「ああ、ナイフがあればな」と思う瞬間がある。例えば、誰かに食べ物をお裾分けする時。手でちぎるには不格好すぎて、かといって登山用のスプーンなんかじゃうまくいかない。
例えば、旅先で手に入れた小物のタグを切りたくなる時。何かの都合で細引を分割したい時。どれも些細な瞬間だ。でも、そんな「些細な不便」で困り果てる時もある。
とはいえ、大きなナイフを持つのも気が引ける。
だからこそ、RIDGE MOUNTAIN GEARの肥後守 Micro Knifeを見た時、あー良いなと思った。
「肥後守(ひごのかみ)」という言葉に触れて、子供の頃の記憶が一気に蘇った。
小学生の頃、なぜかみんな持っていたナイフ。それは今の感覚で言うナイフというより、「道具」だった。特別な儀式もなく、なんとなく手にはいりやすかった印象がある。
僕が初めて手にした肥後守は、父親の作業道具箱の中にあった黒くくすんだもの。特に許可を得たわけではないけれど、咎められることもなかった。裏山に入って、友達と植物の茎を切ったり、無意味に木の枝を削ったり。今思えば、あのナイフはもう刃がだいぶ鈍っていて、正直、あまりよく切れなかった。
でも、その“よく切れなさ”もまた、親たちが黙認していた理由だったのかもしれない。尖った危険な道具というより、使い古された身近な「小道具」。僕にとっての肥後守は、どこか“ナイフ未満”の、不思議な存在だった。
RIDGE MOUNTAIN GEARから発売されているこの肥後守 Micro Knifeは、そんな懐かしい記憶を呼び起こしつつ、しかしまったく新しいプロダクトとして目の前に現れた。
初めて見たときは、まるでミニチュアのような可愛らしさに驚いた。けれど、手に取ってみると、その精密さと造形の美しさに惚れ惚れする。僕が思っていた、昔の肥後守の“地味さ”とは対照的に、このナイフは削ぎ落とされた美しさを纏っている。無駄がなく、静かで、でも確かに佇まいがある。
そして、切れ味は鋭い。子供の頃に使っていた、刃こぼれと錆にまみれたあのナイフとはまるで別物。むしろ、あの「切れない肥後守」を通して僕が抱いていた肥後守のイメージは、完全に更新された。
今、このナイフは僕のエマージェンシーキットの中に常に入っている。
小さくて軽くて、かさばらない。それは機能性というより、ある種の安心感を意味している。
「万が一の時に、ちゃんと“切れる”道具がある」
それは山での選択肢を広げてくれるだけでなく、気持ちにゆとりをもたらしてくれる。ちょっと切りたい、ちょっと困った。そんな時にさっと取り出せる。山の中で、“ほんのちょっとの余裕”は、行動の質を大きく変える気がする。
このナイフには、どこか“ノスタルジー”が宿っている。懐かしいだけではなく、あの頃の自分と今の自分を静かに接続してくれるような、不思議な感覚。それは、ナイフとしての機能だけではなく、記憶を内包する「道具」ならではの力かもしれない。
たまにしか使わない。けれど、あると嬉しい。そして、使うたびに、少しだけ子供の頃の記憶が呼び起こされる。そんな道具が、ザックの片隅にひっそり入っているだけで、ほんの少し豊かになる。
